会長の時間
今日は、ロータリー情報の翻訳について話をします。ロータリーの綱領や手続要覧に対して、もっと理解しやすい日本語に替えたらいいのにと思われた方もおられると思います。
以前は、ロータリーの文献を翻訳する場合、その翻訳権はRIが任命した文献邦訳諮問委員しか認めておられず、さらに直訳することが条件でした。その結果、邦訳諮問委員の努力にも関わらず、意味不明のRIテーマや手続要覧が生まれてくる結果になります。
これは、戦前の日本のロータリーが、あまりにも地域特性を主張した中間管理組織的な活動をしたために、戦後のRI復帰に際して課された条件、すなわちペナルティーだそうです。
各クラブは《それぞれRIに直結しているので、クラブが地区や国単位で固まって行動を起こさない》ことを誓約して戦後RIに復帰を許されています。なお、現在は文献邦訳諮問委員会が廃止されて、全ての文献邦訳はRI本部の日本語担当者が直接翻訳しています。
ロータリーソングに《それでこそロータリー》がありますが、どこで会っても《やあ》と言おうよ。見つけた時には《おい》と呼ぼうよ。これを大先輩ロータリアンと会った時に、《やあ》とか《おい》とか言ったら次から相手してくれなくなるのがオチです。(笑)
英語圏のように、先生を生徒がファーストネームで呼ぶようなことも、日本文化にはないです。
何を言いたいかというと、ロータリーの歌に、綱領に、文献に書かれているから何でも正しいと信じるのではなく、自分の頭で考えなくてはいけないと思います。
原文は英語なので、翻訳によって大変な勘違いが生じることがあります。米山梅吉氏のようにvocatinal・service職業奉仕の奉仕を奉仕と訳さず、原文のサービスという言葉をそのまま使った方が、奉仕の概念よりはるかに広くて、わかりやすいこともあります。サービスをする立場では「貢献」と訳すのも一つの方法かもしれません。
他にも解かりづらい翻訳がありますが、今日はこれぐらいにして、会長の時間とします。
卓話
幸運ホールディングス株式会社 代表取締役社長 馬場 邦彦 様
どうしても、トラック関係なんですけど、本田清秀さんが副会長の時、13年くらい前になると思いますが、部会長された後、自分がなりまして、その後自分がトラック協会の会長になったという事で、非常にお世話になりました。
それで、八江農芸の八江さんにおかれましては、私が42歳の時、25年前に胃癌になりまして、大村の医療センターに入院している時に同室でその時は、私が先輩で入院しておりました。
その辺もありまして、今も繋がりを持ってお仕事の話をさせて頂いてます。
私ども幸運トラックという会社はですね、昭和28年に会社を設立しました。
トラックは、まったく儲からなかったんですけど、創業者が名前を幸運とつけたいという事で佐世保のラッキータクシーのダンスホールに行きまして、幸運という名前をつけさせてもらいました。
会社の設立時に、うちの創業者がいつも言ってたのは、会社を設立した時にドライバーをですね、役員を5名くらいで会社を設立させた途端、トラックに乗らなくなって、事務所にずっと居て、それが発端で会社の経営が厳しくなって1年で非常に厳しくなり、創業者の家が競売にかかるくらい厳しくなりまして、その時にラッキータクシーの創業者が、お前自宅を売り飛ばしてしまうと、路頭に迷って家族がご飯食べれなくなるという事で、当時の20万円を貸してくれました。
会社の一番の元は、やっぱりここにあるのは、ラッキータクシーさんのお陰だと思って、毎年盆と正月には線香上げに行ってます。
僕は昭和32年5月12日諫早の大水害の時に生まれて、養子で行ってるわけですけど、当時高瀬建設の高瀬とみおさんという方が間に入ってくれて、うちの嫁さんの家に娘さんが5人居て、2人は結婚してるけど、3番目の娘の養子にどうやろうか?という話があって、自分はトラックに乗った事ないし、それはちょっと自分には向かないんじゃないですかね?って言ったんですが、お見合いをした訳ですけども、その時にうちの創業者馬場光徳さんの顔見たら、顔は真っ黒で毎日魚釣りとゴルフで、どこに居るのかっていうくらい黒くて非常に勇ましくて、豪快な社長で一気に落とされて自分が運送会社出来るかな?と思って幸運トラックに入りました。
行ったら1日目からトラックに乗るような話に、事務所に出て行ったら、朝から運転手が出て来なくて、この荷物どうするのかなぁ?って思ってましたら、常務さんとして配車してる方から、ちょっと運転手出て来ないから、トラックに乗って荷物降ろしに行ってくれないか?と言われてトラック運転した事無いのに、荷物降ろしに行ったのが、運送会社の一番の大変さを感じたのが始まりですが、とりあえず運送業の事が全く分からなかったので、まず5年はトラックに乗ってドライバーの気持ちを分からないといけないし、どういう仕事をしているのかも分からないし、まずトラックに乗って現場の事を覚えようと28歳だったんですが、5年間乗っておりました。
諫早には、日本ハムがあったり長崎にはヤクルトがあったりするわけですけど、そういう所に営業してみたいなぁと思っていましたが、中々簡単に仕事取れるものではありませんでした。
諫早は、本田産業さんがいらっしゃるので、とてもじゃないけど足を踏み入れられないという所もありまして、ヤクルトの東京本社に行ったら、ことごとく30分で話が終わって門前払いにあって、今度は大手の会社の荷物がある所とか、日経新聞みたいな上場会社で、うちが運べるような所がないかと思いまして、どんどん営業かけたら、やっぱり命懸けで営業すれば何とかなるもんで、ここまでこれました。
当時、路線会社を紹介してくれた自分の親戚がうちの会社は前年対比10%アップで、ここまできたという話で、あなたもその位目指してやってみろって言われまして、自分もそうかと思って当時自分が養子に行った時が5億の会社でした。
次の年は10%アップで5億5千万、何とかなって、これが10億になったら1億になるわけで1億になったら大変だなと。
10億の時が運送会社で一番儲かりませんでした。
なかなか10億という中、3%くらいが運送会社の平均利益ですから、3000万なんだっていうような話です。
これが、夏場全社員で頑張って20億になりまして、次は2億になるわけですね。
2億も中々大変だったんですが、これが50億まで上がったんです。
で、今度は5億稼がないといけない、これはこれで大変で毎年営業を増やしていったという感じです。
結局200億まで24年の決算でいきますと、グループで220億くらいまでになったんですけど、前年対比10%で30年間で1回も落とさずに、ここまできました。
うちの創業者の遺言がですね、本社を大村から動かすな、それと政治には手を出すなというのが遺言でした。
創業者が毎年年末に一年頑張れって、会社の業績が上がれば上がる程、業者の方から可愛がられるもんですけど、非常に社長の立場が良かったんでしょうね。
自分が15年副社長をやりまして、14年間社長の地位でいるわけですけど、今年古希なんですけど副社長時代が長くて、そろそろ社長を譲るという話をしてた中で、うちのお客さんを含めたコンペの中で自分も40年丸々経って、来月の株主総会で社長を譲ると明言をしまして、この運送業というのが、燃料高騰と車両価格の高騰と物価高、とてもじゃないけど、運送業自体を続けて、売り上げを上げていくというのは非常に難しい事態。
そして、24年問題、労働時間も残業もさせられない、長距離も走らせられない、今までみたいに右肩上がりの仕事では、到底難しい業種になってきたのかなぁと感じます。全国で大体6万社くらい運送会社があるんですけど、長崎県の運送業はトラックドライバーが平均60歳近くなっていると、国土交通省とも話をしてますが、あと10年した時は、30%は物流が運べなくなるのではなかろうかという非常に国の方も法的にドライバーに優しくなってますけど、長時間をなるべく走らせないようにと、事故が無いようにという事もあるのでしょうけど、ドライバーは稼いでなんぼという事があるので、やっぱり給料を稼がないと稼げる所に飛ばしても走っていて辞めてしまうという事があるわけですね。
運送業をやっていく中でいかに運転手を大事にしながら、事故の無いようにしながら、継続していくというのが非常に難しくなっているわけですけど、後継者にこの時期に譲るのは、ちょっと可哀想かなぁっていう気がします。
うちの社員と一緒に今まで75年これた会社を100年、150年続けられるような会社として、また売上を上げられるような気持ちで厳しい時代と思いますが、何とか日本一の幸運トラックを目指して頑張って欲しいなぁっていう事でいる現状でございます。
今後とも宜しくお願いします。
ありがとうございました。
(卓話の内容を一部抜粋)
