5月9日例会 新入会員卓話


会長の時間

〈本当に神様はいるのか〉について

 2004年約20年前、北ロータリークラブの世界社会奉仕事業として、ネパールの貧しい村に診療所建設資金の寄付に行きました。その時の委員長が……直前会長の辻さんでした。ネパールへ行ったのが、確か5人ほどだったと思いますが……その時のメンバーで現在ロータリーに残っているのは私と辻さんの2人だけです。

 何故、私と辻さんが行ったのかというと……別に特別な関係ではありません。実はその時の世界社会奉仕委員長が辻さんで、次の委員長が私に決まっていたので、次のアメリカ世界大会の為に行かなければと言われ……ハイと言って行っただけの事です。その当時の北ロータリーは言われたら何でもハイと答える様教えられていました。

 その11年後、2015年4月25日ネパールのカトマンズで大地震が起きて多くの人達が命を失いました。

 世界遺産が立ち並ぶ寺院が次々と音を立てて崩れる中、18世紀に建てられた、生き神の住む「クマリの館」と呼ばれる建物だけがほぼ無傷でした。……それは何故かというと……そこに住む「クマリ」と呼ばれる3歳~12、13歳までの女の子のお陰と言われています。「クマリ」は仏教徒僧侶の一族から多くの条件をクリアーした少女が1人だけ選ばれ、ヒンズー教の化身として今でも崇拝されているのです。……この「クマリ」も初潮を迎えると役目が終わり、又新たなクマリが選ばれる事になっています。

 私も辻さんも実際「クマリの館」で「クマリ」を生で見ましたので大地震の様子は想像できますが……何故「クマリの館」だけが崩壊しなかったのか……? 不思議でなりません。……信じる者は救われるという言葉がある様に私は信じたいです!……そういえば今から2年前会長の時間で「信じる者は騙される」と言った人がいましたが、その時橋本さんが誰に騙されたのか……男なのか、女なのか聞いていなかったのが少し悔やまれます。

 こういう体験が出来たのもロータリーとの出逢いがあったからこそと感謝しております。

 最後に……最近は年を取ると神も仏も準備万端で、すぐ側で控えておりますので、私も辻さんも安心です!

・米山奨学生  ハ・ティ・ヒエンさん


新入会員卓話

渡瀬 仁 君

 皆さん、こんにちは。新入会員の渡瀬と申します。

 昭和42年6月9日に、3人兄弟の長男として、生まれました。

 自営が看板屋ですけども、祖父が昭和15年に創業、今年で84年目をむかえます。

 私が8カ月の時に、祖父が他界しまして、その時祖母が50歳だったんですけど、最愛の夫が亡くなったという事で愛情がすべて私の方に、それが生き甲斐になりました。父から怒られてもおばあちゃんの所に行って、救ってもらうという感じで、私にとっておばあちゃんはセコムみたいな感じでした。

 それで、小さい時からおばあちゃんに、おじいちゃんの後をついで貰わないとという事で看板屋、もう私の中では、看板屋しか知りませんでした。

 画用紙とか紙をいつも用意されて、毎日最初は嫌々だったんですけど、絵を書いてました。ずっと書いてたら、やはり飽きてしまうので、途中で図鑑の動物を見たりして書いてましたが、閉じて自分の想像で、風景とか考えながら書くようになって、記憶力が良くなったような気がします。

 それで、小学校の時に、漢字の書き取り、皆さんも書かれたと思いますけど、何ページも書くのがありましたけど、そういった面倒臭い事が嫌いだったので、何を思ったのか、HBの鉛筆を2Bに持ち替えて、丁寧に書いて1ページ仕上げます。で、隣のページを綺麗に合わせて、図工でした版画みたいに、皆さんも気付かれたと思いますが、こすってパッと開けたら、左のページが全部反対なんですよね。それで、学校に持って行ったら案の定怒られまして、やはりその当時から理解力が無かったのかなぁって思います。

 で、高校で行く所が無いっていったら、川﨑先生に怒られるんですけど、父の母校であります、鎮西学院高校に推薦で入学します。

 それで、当時諫早レッズの1期生で北村君という方が居ますが、彼が盛んに野球一緒にやろう!という事で、中学生の時は、野球やってなかったんですけどやります。で、入部すると厳しい上下関係です。集合というのがありますが、道具、グランド整備、挨拶、それと片付けとか、気合いとかグランド内を歩いてたというだけで、みんな集合で2年生なので、暖かい右手とか、暖かい左足とか飛んできて、毎日のようにしごかれてたような気がします。で、その上下関係の厳しい中で、一番勉強になったのかわかりませんけど、部室に呼ばれまして、ジュースを買って来いと言われたんです、3人いらっしゃいました、一番右の方からジュースを買って来いという事でジュースを買って持って行ったんです、そしたら一番左の先輩が、「俺のは?」と言われたので「えっ?」と言いましたら、「先輩から言われたら、はい!やろう!」と言われるけど、また「えっ?」と言いますと、また暖かい右手と左足が飛んで来たんですけど、で真ん中の先輩が「お前さ3人居たら、そういう気配り、3人居たら先輩ジュース買って来ました、分かっとらんなぁ」っていう感じで言われたんですよね、でもこれが社会に出て役にたちました。

 次、社会人時代、昭和63年の4月に株式会社幻想社という会社に6年間在籍させて貰いました。看板関係の仕事、イベント関係、商業施設、店舗改装こういうホテルのバケットプロデュースなどの設営などをやってた会社なんですが、景気も良かったので、1年目は330日くらい、残業もしょっちゅうで、残業代無しで、ブラック企業というふうに言われてましたけど、私は高校の時に年間休みが2回か3回しかなかった中に、暖かいゲンコツとかですね、そういったのを貰ってたんですが、会社では給料を貰えた訳で、全然苦にならなかったです。これがやはり、高校時代の当時理不尽と思われる事が、活きたのかなぁというふうに感じております。

 それと、会社の方はですね、ほとんど下請けの方に頼んで、それを管理する会社だったので、このままでは、看板を造るそういった勉強にならないと思って、その下請けの会社をずっと回らせて貰って色々手伝ってまして、自分なりに勉強してて、そこで、高校の時のエピソードですね、その下請けの会社の社長が部長や事務員の方達に5人分ジュースを自分で買って来て、「あなたの方がお客様なのに、わざわざ、そんな事して貰って」と言いながらですね、自分は可愛がって貰って、自分の回りに色々手伝って貰える人がたくさん居ました。それが本当に感謝だなぁと思います。

 最後になりますけど、本当に人に助けて貰い人に活かされたのかなぁというふうに思います。ロータリーの中で、4つの職業奉仕とかありますけども、最近色んな方に、物を送ったりとか、ジュースを買ったりとかを、最近してないので、今後またやっていきたいと思います。

 

松尾 壮典 君