3月2日例会


会長の時間

 2月23日、令和天皇の誕生日で例会は休会でした。

 その2月23日?は、令和天皇だけでなく、ロータリークラブもアメリカのシカゴで誕生した記念すべき日でした。

 本日は、名創業者の第2弾をお話します。

 3月9日からWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催されます。

 野球のボール、球体が2枚の皮で縫い合わされています。その縫い目はいくつある?? 小溝忠徳君!はい、108です!

 即座に答えられる人は凄い野球通です。野球選手でも答えられないと思います。正解は「108」です。

 戦前、アメリカから取り寄せたボールには130の縫い目があった。戦後、アメリカから届いたボールの縫い目は「108」になっていた。大晦日の除夜の鐘を連想する数です。一切の邪念を捨て、魂を込めて投げる「一球入魂」の精神に相応しい数ということで、この108の縫い目が定着したそうです。

 明治17年5月、岐阜県大垣市で水野仁吉が生まれました。

 家業は「殿様御用達の大工の棟梁」明治24年10月28日(水野仁吉小学1年の時)美濃・尾張大地震(マグニチュード8.4)が中部地方を襲いました。

 水野家も倒壊し、焼失、街の復興の為、必死に働いた父が過労で45歳の若さで亡くなったそうです。家業の廃業。その後、母が絹織物加工の内職で生計を立てるも、生活は苦しく12歳で高等小学校を中退、奉公に出ることになりました。

 この時、水野仁吉は、母・弟・妹に「自分の手で水野家を必ず再興してみせる、父の時代よりもっと立派な事業を興すから待ってて欲しい。間口13間、高さ100尺の店を建てて見せる!」と誓った。

 奉公先は、大阪の薬種問屋さん、駅や港に着いた荷物を大八車に乗せ、店まで持ち帰る。そして、得意先への配達、身長150㎝あるかないかの水野仁吉には重労働であった。

 しかし、大きな夢を母・弟・妹にしたので、仁吉は耐え、奉公して2年の時には、取引先の番頭になったそうです。開拓者精神に溢れるアメリカに憧れを持つ仁吉に、母から「これからは繊維の時代が来る」と忠告され、京都の繊維問屋へ移った。ここで、水野仁吉は野球と出会った。もしも、大阪の薬問屋の番頭で満足していたら、世界のスポーツ用品メーカーミズノ株式会社は生まれなかった。

 明治37年、日本はまだスポーツと言えば武道中心、今後の日本は、欧米スポーツの時代が来る と予想。明治39年、水野仁吉は弟と二人で「水野兄弟商会」を設立。その後、大阪へ本社を移し、社名を漢字の「美津濃商店4 4 4 4 4 」へと改名、西洋近代スポーツ野球・ゴルフ・テニスが日本で急速に広まり、水野仁吉の見通しは当りました。

 水野仁吉が、市場の開拓から始めたスポーツの普及、実業団野球・高校野球、これは、今や国民的行事となりました。

 大正3年水野仁吉は、妻と長男を相次いで亡くし、大正4年高校野球の主催を朝日新聞社に渡し主催を辞めた。

 野球ボールを13フィート半の高さから大理石の台に落とし4フィート4インチから6インチ跳ね返るものと統一する基準も水野仁吉が作りました。ちなみに、バウンドの高さは水野仁吉(この頃父の名を名乗り水野利八)の「目の位置」だったそうです。

 ミズノ株式会社のネーミングで、カッターシャツ・ボストンバッグ・ランパン・ポロシャツがございますが、カッターシャツは水野利八が「勝った 」の語呂合わせで生まれたそうです。

 走りに走ったミズノ株式会社の名創業者水野利八は、85歳を機に息子さんへ社長の椅子を譲って、昭和45年3月86歳で天寿を全うされました。


・ゲスト  国際ロータリー第2740地区公共イメージ委員会 委員長 原田 徹 様


卓話「ロータリーの公共イメージ向上を正しくご理解いただくために」

国際ロータリー第2740地区公共イメージ委員会

委員長 原田 徹 様