2月16日例会


会長の時間

〈名創業者の話〉

 2月12日?3年ぶりに開催された第7第8グループ合同IMがシーサイドホテル島原でございました。当クラブから多数の会員が参加してくれました。ありがとうございました。

 トマトは、今でこそ不可欠の食材ですが、日本に伝来した江戸時代初期から明治まで真っ赤な色、独特の匂い、強烈な酸味から、一部のもの好き4 4 4 4 な人が観賞用として植えるだけの存在でしかなかった。明治8年2月愛知県(現)東海市の農家に、佐野一太郎という男の子が誕生。8歳で母を亡くし、10歳で学業を断念。

 当時行われていた、東海道本線敷設工事など重労働に出て稼ぎ、家計を助けていました。そうやって、しっかりした若者に育った佐野一太郎を、隣村で1町3反(3,900坪)の田畑を持ち、養蚕やみかん栽培をしていた蟹江家から、娘のお婿さんになって欲しいという話が来ました。佐野家の長男を婿に出せないと断っていましたが、何回も申し入れてきた、18歳の正月、蟹江家へ一太郎は婿養子に入ったんです。

 これが良かった 蟹江家は、多角的かつ積極的農業をしておられたので、その為の一太郎に勉強とチャレンジの機会を与えてくれたそうです。

 本格的に勉強をスタートしたとたん、兵役義務で3年間軍隊に入ることに。この軍隊の上官が、「除隊したら農業をするんだろう、農業は頭を使え、あまり誰も手掛けていないトマトがいい。」西洋野菜の時代が、必ず日本にも来ると助言を頂いた。

 除隊後、義父にお願いし、西洋野菜の勉強を再スタートする。トマトの種子が何とか手に入り、初収穫の夜、一家で試食したけど、一口かじっただけで全員吐き出してしまった。

 それでも、蟹江一太郎は作付面積を増やし、本格的な収穫が始まる、収穫した野菜を大八車に積み行商に出た。ホテルや西洋料理店のある大都市名古屋まで数十キロの道のりを大八車を引き、売り込みに行き、いろんな野菜は完売するも「トマトだけは最後まで残った」のです。

売れ残ったトマトをどうするか??

 アメリカでは、トマトを調理加工して料理にして使っているという情報を得て、早速、一家総出でトマトを鍋で茄でて裏ごし後、ピューレにし、瓶詰めにした。翌日、名古屋の洋食料理店へ持って行き、主人に試食してもらった所「うん、これならいける。置いていきなさい」と言ってもらい、天にも昇るような気持ちになった。

 明治36年トマト加工が本格的に始まり、大正3年カゴメ㈱の前身「愛知トマト製造合資会社」を設立し、家業を企業化すると同時に、トマト農家3人の同志と「愛知トマトソース製造合資会社」も設立。

 やがて、トマトケチャップは洋風化の代名詞となり、トマトジュースは健康食品のチャンピオンとなった。

 蟹江一太郎は、昭和32年82歳の時(辻登志美1歳の年)、更に新しいことを学びたくて、最先進国のアメリカを視察し、貿易と資本の自由化を学んで帰国、昭和37年社長の座を養子の蟹江一忠に譲り、翌年、昭和38年社名をカゴメ株式会社に改めました。カゴメ創業者の蟹江一太郎は、社長の椅子を譲った後も、昭和46年12月20日、96歳の天寿を全うするまで陣頭に立ち、社業を指揮し、生涯現役を貫き通しました。

 今後、このトマトで財を成す人が長崎県内に2名おられるのはご存じですか?それは、高島トマトで有名な崎永海運 崎永PGと森山ミニトマトで有名な水頭知美君です。


・交換留学生  ワン・ウェイ・ハオ君


新入会員卓話

 皆さんこんにちは。まず初めに私が諫早北ロータリークラブに入会したきっかけは長崎日大高校野球部先輩の橋本政二さん、長崎銀行に勤めていた時の直属の上司だった黒田茂さんの勧めがあったからです。

 実は10年ほど前から橋本さんからは勧められていましたが断っていました。しかし去年、また橋本さんと黒田さんが2人で私の会社にお見えになりました。今回は前とは気持ちが変わり諫早の企業のトップの方々がつどわれる会に入って、色々と得るものがあり、視野が広がるのではないかと思って入会に至りました。

 今日は、新入会員卓話ということで何を話そうかなと色々考えましたが、これといって取り柄がないものですから、自分の生い立ち、経験談を話してみようかなと思います。大勢の方の前で話すのは緊張してます。途中カミカミになったり、つまらない話かもしれませんが、最後までおつき合いして頂ければと思います。

 まず、私の出身地は諫早市の土師野尾町という所で昭和41年9月に生まれました。1966年、午年です。この年の生まれの人は「ひのえうま」の年に当り、60年に1回の周期で回ってきます。私が今年57歳になりますので、あと3年でひのえうまの年になります。丙午(ひのえうま)とは皆さんも御存知かとは思いますが、簡単に説明しますと丙(ひのえ)と午(うま)は共に五行思想の「火」の運気を持ち、陰陽説の「陽」の性質をもつことから、激しく燃えさかることを表し、中国では昔から丙午(ひのえうま)の年は火災が多く災いの年であると信じられていました。

 この考え方は日本にも伝わり、丙午(ひのえうま)の年は特に火災に気を付けていたそうです。そして江戸時代に1666年丙午(ひのえうま)生まれの八百屋のお七という女性が「火災が起これば愛しい彼に会える」という激しい恋心を抱き、江戸の町に放火した事件が起こり、「丙午(ひのえうま)生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める、夫を食い殺す」という迷信ができたといわれています。

 放火事件とその原因がお七の激しい恋心ということが結びつき、丙午(ひのえうま)の女性に対する恐怖へと結びついたと考えられています。これは迷信であり資料は残っていないそうです。私は昭和41年生まれですが、前年の40年生まれより出生率が25%減少したそうです。これはマスコミが丙午(ひのえうま)の迷信を報道したことが影響し、もしも女の子が生まれたら……と考えた夫婦が子供をもうけるのを避けたり、妊娠中絶を行ったりしたそうです。

 実際、私たちの同年と一学年上と下では、中学・高校・大学とかなり生徒数が少なく、受験・就職とかなり有利となりました。

 丙午(ひのえうま)の話はこれくらいにしまして、私の祖母、おばあちゃんは子供を13人も生みまして、男5人・女8人という内訳ですが、長男、二男、三男は3人とも20代で戦死しました。四男と長女は幼くして亡くなりました。父は末っ子ですが、本家の跡をとりました。父の姉さん達が7人いましたので、正月・盆は皆本家に集まり毎年20人前後でにぎわっていました。ちなみに私の父方の山本家だけでいとこが27人もいました。2人亡くなりましたが今も25人います。

 中学校は諫早中学、高校は長崎日大高校と進み野球部に所属していました。親は「日大高校は学費が高いので諫早高校に行きなさい」と言っていましたが、長崎県内の実力のある主力選手が日大高校に入学すると聞いて、甲子園を夢見て日大高校に進学しました。1年生の秋からセカンドでレギュラーで頑張りました。あの3つ年上の小さな大投手と言われた橋本政二さんでも秋の県大会決勝で延長の末佐世保工業に敗れました。私の時代も決勝で佐世保実業に7-8と敗れ、選抜の夢は絶たれました。夏の大会もベスト8で敗れ、甲子園への夢は散ってしまいました。

 この諫早北ロータリークラブで高校時代に甲子園に出場された方は、諫早高校出身の小溝さんと先月入会された長崎日大高校出身の川下君がいらっしゃいますがすごい事であり、うらやましく思います。

 そして、高校を卒業し大学へと進む訳ですが、当時私の家庭は裕福ではありませんでしたので、就職しなさいと親から言われました。しかし、今の時代大学までは行かないといけないという強い願望がありましたので、働きながら大学に行く事を決意しました。周囲からはかなり反対されましたが、日本大学法学部法律学科の二部(夜間)に進学しました。日大高校からの推薦で日本大学歯学部放射線科アイソトープ(放射性同位元素)研究室という部署で大学の学生職員として働きました。4年間の契約ですが、大学の職員と同じ待遇で公務員並の給料で毎月手取りで14~15万、ボーナスも年3回、夏・冬は手取りで40万近くもらっていました。仕事内容も楽で研究室の受付・雑用程度でしたのでかなり恵まれた職場でした。住まいは諫早市東京学生寮が東京都文京区目白にあり、男子寮で当時22~23人入ってましたが、当時の寮費が6,500円(毎月)でそれだけ親に払ってもらってました。生活費も授業料も皆自分で払っていき、4年ストレートで卒業する事ができました。大学4年間東京での生活は苦になるものではなく私の今までの人生の中でも、最も楽しく学校・仕事・寮生活と最高の思い出となりました。

 そして大学卒業して就職する訳ですが、私は本家の長男という事もあり、地元長崎に戻る事を決め、そして長崎銀行へ内定を頂きました。平成元年に長崎銀行に入行しましたが、その頃はバブルの最盛期であり、金利も高く、金融業界のみならず他業界もかなり収益が上がっていました。入行して3カ月間はみっちりと研修期間があり、ここにいらっしゃいます黒田茂さんが研修課長で預金・融資・為替・法務・税務・財務と指導を受けました。そして北九州の戸畑支店に配属され、長崎の稲佐、諫早の福田、諫早支店、最後に長崎の新大工町支店と5カ店勤務して14年間勤めました。銀行もバブル崩壊後、不良債権の整理、低金利で利ザヤの確保が難しくなり、長崎銀行も福岡シティ銀行(現西日本シティ銀行)の子会社となりました。私も黒田茂さんと同じで銀行の頭取になる事が夢でしたが、それが叶わないとわかり転職を決めました。父が自動車解体業を経営していましたので、跡を継ぐ事にしました。車の部品の事など始めは全くわかりませんでしたが、勤めて19年、今では新しい車はわかりませんが、10年以上前の車でしたら車種・型式・年式見ただけでだいたいはわかるようになりました。特に軽自動車の部品の取扱いが多いので軽自動車の部品は詳しくなりました。近年、コロナ禍及び半導体不足による新車の販売台数が落ち込み、中古車の高騰などにより廃自動車の入手も厳しくなっています。

 私の趣味はゴルフです。38歳でゴルフを始め、2年10カ月でハンディ10、3年半でシングルになる事ができました。練習も週2回程行っています。令和3年おととしですが、ホームコースチサンカントリー森山で理事長杯(マッチプレー)で優勝してチャンピオンになる事ができました。私自身の誇りでもあります。

 色々な方と出会い、自己を成長させる事ができました。そして今また、諫早北ロータリークラブのすばらしい方々に出会えて感謝しております。今後とも宜しくお願いします。